カーナビに思うこと

 先日、カーナビが付いていない中古の軽自動車を買った。運転免許を取ってからそろそろ50年。その運転歴の中で45年間カーナビなしのというか20年前は

カーナビすらなかった。ロードマップさえあれば、何の躊躇もなく日本中どこでも行けた。なのでカーナビがないことなどまったく気にしなかった。
 ところが現実は違った。カ-ナビ付の車に4年乗っただけで、カーナビの付いていない車に乗った途端カーナビがない不安に怯えてしまった。もっともスマホのカーナビアプリを使えばいいのだが、そんなことではない。4年前までは平気だったことが平気ではなくなっている自分に不安を感じたのだ。
 たしかにカーナビは便利だ。目的地まで支持されるがままに運転すればいいし、およその到着時刻もわかる。最近はネットに接続していて渋滞状況もわかる。
だがそんな便利さに頼っているつもりはなかった自分が、たった4年で知らず知らずのうちにカーナビに頼ってしまっていると気が付いたことがショックだったのだ。
人間とは元来ずぼらで怠け者。便利なものが登場すれば、躊躇もなくすぐに受け入れて自身に鉦備わった能力を惜しみなく捨てて行く。
 カーナビだけではない。4年前から乗っている車には、安全装置が装備されていて、バックモニターはもちろん、道路のラインに沿って走るし、一定の速度で走るし、自動ブレーキまで付いている。さらに最近の車は、ヘッドライトも自動点灯。まさに至れり尽くせりだ。昔に比べると運転がすごく楽になって運転に集中する必要がなくなって自由度が増したのかもしれないが、運転している感より、乗せられている感が強くなったともいえる。そういえば、車の強度保つためか、以前よりもガラス面積も小さくなり視界が悪くなった。それを補うためか、やたらカメラを装着する。
 つまり、自分で見て考えて運転する楽しさが奪われた感がある。そういう意味では本来の考えたり楽しんだりする自由度がなくなった。これって、ある一定の枠内でしか自由を認めないという、今の世の中が向かっている方向と同じじゃない?
 便利さに安易に心を売ってはいけないと、反省しきり。カーナビの使用は、困ったときだけにしよう。できるかな?

2022年04月07日